流祖・初代中尾都山と都山流の歴史
都山流の創始者、中尾都山は本名を琳三(りんぞう)といい、明治9年(1876)10月5日に大阪府枚方(ひらかた)町(現在の枚方市)に生まれました。都山の母み津は寺内検校の娘で、地歌、箏曲の師匠として、当時大阪で活躍していた尺八家、近藤宗悦と合奏もしていました。このような環境で育った都山は虚無僧修行にも出て、明治29年(1896)2月15日には大阪市天満で尺八の教授を始めました。
この日を都山流の創立記念日としています。
尺八は江戸時代に虚無僧が独占し、演奏する曲も宗教的なものがほとんどでしたが、都山は明治36年(1903)の「慷月調」をはじめとして従来の古典尺八曲にはない新しい「都山流本曲」を次々と作曲しました。また古典尺八本曲はほとんど独奏曲でしたが、都山は合奏曲の本曲という新しい分野を開拓しました。
更に都山は地歌・箏曲に新たな尺八の手付け(てつけ)を加え、三曲合奏(箏・三絃・尺八)における尺八の地位を高めました。
都山はこれらの作品を独自の記譜法で楽譜にし、明治41年(1908)から出版を始めました。大正13年(1924)には当時新進の箏演奏家として知られていた宮城道雄の尺八楽譜を最初に出版し、翌14年(1925)には宮城道雄と共に西日本縦断の演奏旅行を行いました。
ここからいわゆる「新日本音楽」が盛んになりますが、正に都山はその生みの親の一人であり、育ての親でもあります。更には、久本玄智、斉藤松聲、中村双葉、山川園松ら次々と輩出した新しい才能の作品を演奏会や講習会で取り上げ、世に紹介していきました。
時代は少しさかのぼりますが、大正11年(1922)に都山は本拠地を大阪(枚方)から東京に移しました。それまで西日本に片寄っていた門人がこれ以降全国に広がり、また山田流箏曲家との親交も深めていきました。
以上のことに加えて、月刊誌「都山流楽報」の発行(大正3年より)、試験制度による教授者の育成(明治44年より)、評議員制度による組織の運営(大正6年より)などの新基軸を打ち出し、短期間で都山流は尺八界最大と言われる流派になりました。これらの功績により、都山は昭和28年(1953)に日本芸術院賞を受賞しました。
◆ 石清水八幡宮と流祖都山 ◆
石清水八幡宮
流祖都山は京都の石清水八幡宮への信仰が厚く、枚方の都山邸に石清水八幡宮を分祀して、流の記念行事をその神前で行いました。この伝統は現在も都山流会館で続いています。
昭和37年(1962)、流祖七回忌記念事業として、都山流ゆかりの石清水八幡宮境内に頌徳碑を建立しました。
「萬象尽蔵一管中(ばんしょうじんぞういっかんちゅう)」万象をことごとく、一管の中におさめる。すなわち「人生の喜怒哀楽や森羅万象全てを余すところなく、一管の尺八で表現する」都山流人が尺八吹奏の究極の目標とする言葉です。